日本を救った第8師団
そして、今日の仕事が終わった後、靖国神社に参拝してきました。

靖国神社には、明治以降に亡くなった英霊246万柱が祀られていますが、その中には、俺の出身地の秋田県の部隊も含まれています。
秋田県で編成された部隊については、陸上自衛隊秋田駐屯地のHPを参照してみましょう。
陸上自衛隊秋田駐屯地 郷土旧軍部隊
http://www.mod.go.jp/gsdf/neae/akitasta/about-camp-akita/archives/archives-2.html
まずは、歩兵第17連隊。
明治31年(1898年)に青森県の弘前に第8師団が新設される際に、仙台の第2師団の一部が移設されたのが秋田歩兵第17連隊の始まりです。
第8師団が活躍したのは、日露戦争の黒溝台会戦。
日本軍がロシア軍の攻撃の前に崩壊寸前となった戦いでした。
日露が開戦して1年近くが経とうとしていた1905年1月、兵力に勝るロシア軍が冬季大攻勢を仕掛けてきます。
ロシア軍はまず、右側の10万人の部隊で手薄な日本軍の左側に押し寄せました。
守る日本軍は、40kmの戦線に8,000人だけ。
この危機を救うために派遣されたのが、予備兵力だった弘前第8師団。
弘前第8師団は、日露戦争の6年前に新設された師団で、青森第5歩兵連隊、秋田第17歩兵連隊などから構成される18,000人の部隊です。
師団長は、戊辰戦争の幕府軍の英雄、立見尚文。
この18,000人の第8師団と8,000人の秋山支隊(騎兵)で10万人のロシア軍の攻撃に立ち向かいました。
兵力差で5倍近いロシア軍を相手に第8師団は約30%の死傷者を出しながらも持ちこたえ、最終的には中央部からの援軍を受けた上で、一度放棄した黒溝台の陣地に大規模な夜襲を仕掛け、ロシア軍から黒溝台の陣地を奪い返し、この戦いに勝利しました。
ロシア軍が攻勢に出たのは、この黒溝台の戦いが最後で、以後のロシア軍は守勢に回り、2ヶ月後の3月10日の奉天大会戦で日本軍に敗れて、公主嶺まで敗走すると、戦争が終わるまでそこから動くことはありませんでした。
ロシア軍は右側の攻撃が成功したら中央部からの総攻撃を行う計画で、中央部からの攻撃は開始寸前でした。
日本軍は左側の手当てをするため、中央部からも兵力を回していたので、中央部からも攻撃を受けていたら、崩壊の危機にさらされるところでした。
これを防いだのが、第8師団です。その第8師団には、秋田第17連隊もいました。
第8師団が壊滅状態寸前になりながらもロシア軍の攻撃に耐えた上で、ロシア軍を撃退したことで、日本軍を崩壊の危機から救ったのです。
秋田県の部隊が満州の日本軍を、いや、日本を救ったと言っても過言ではありません。
事実、第8師団に対しては、「国宝師団」の尊称が与えられています。
「国宝師団」ですよ!!
郷土の部隊に「国宝師団」という尊称が与えられていたことを秋田県出身者は誇りに思うべきです。
これも秋田県民が知っておくべき郷土の歴史のひとつです。
日露戦争の勝利は、産業革命以降、白人国家に対して有色人種国家が勝利した最初の戦いであり、アジア、アフリカのナショナリズムが盛んになるきっかけとなりました。
その勝利に秋田県の部隊が大きく貢献したことは秋田県内の学校でも教えるべきでしょう。
さて、日露戦争後の第17連隊ですが、大正時代にはシベリア出兵、昭和に入ってからは、熱河作戦を戦った後、満州に駐留し、最後はフィリピンで米軍と戦い、そこで終戦を迎えました。
フィリピンに上陸した当初三千余名を数えた将兵は、わずか1年足らず後の終戦時には、生存者九百余名に過ぎなかったそうです。
ちなみに、昔の実家の近くには、戦争でフィリピンに行ったという人がいたので、その人は、第17連隊に所属していたのかもしれません。
次に、歩兵第117連隊。
日中戦争が始まった1937年に編成された部隊で、北支(華北)で戦った後、満州に移動し、最後は福岡で終戦。
最後に、歩兵第223連隊。
日中戦争3年目の1939年に編成された部隊で、1940年から第117連隊に代わって北支(華北)で戦う。
その勇猛な戦いぶりから「山西の鬼」と恐れられたらしい。
1943年12月からは、ニューギニアに派遣され、ニューギニアで終戦を迎える。
ちなみに、俺の父方の祖父は、華北に出征していたらしい。
ニューギニアには行っていないようなので、そうなると、第223連隊ではなく、第117連隊に所属していたのだろうか?
秋田県の部隊が戦ったのは、日清・日露戦争以外では、シベリア出兵、満州事変、日中戦争、太平洋戦争。
戦った場所も、満州、シベリア、華北、フィリピン、ニューギニアと広い範囲にわたる。
特に、フィリピンとニューギニアでの戦いは過酷だったと思う。
容赦ない米軍の攻撃と飢えと病気。
遺骨を回収できず、そのままになっている兵士も多いだろう。
しかし、遺骨はそのままでも、戦死者の魂は靖国神社に祀られている。
そして、靖国神社がある限り、戦死者の魂は慰霊され続ける。
外国の目を気にして総理大臣が靖国神社に参拝できない状態が続いているのは、非常に残念だ。
さて、俺が8月15日に靖国神社に参拝するのは、そうした戦死者の魂を慰霊するとともに、8月15日が日本人にとって苦難が始まった日だと忘れないためである。
8月15日に戦争が終わったとはよく言われるが、実際はそうではない。
米軍による空襲は終わったが、満州や樺太では8月15日以降もソ連軍による攻撃は止まらなかったし、朝鮮ではこの日を境に日本人の受難が始まった。
ソ連軍、中国人、朝鮮人は日本人に対して暴虐の限りを尽くし、終戦後に満州、朝鮮、シベリア、樺太で死亡した日本人は40万人にのぼると言われる。
この人数は、広島と長崎に落とされた原爆で殺された人数よりも多い。
また、日本国内でも朝鮮人は暴虐の限りを尽くしたし、進駐してきた米軍も規律正しい日本軍には到底及ばない存在だった。
そして、外地に出征していた軍人を含め、外地に居住していた1,000万人以上の日本人が日本本土に追放されることになったことを忘れてはならない。
ちなみに、俺の母方の祖父母は、台湾からの引揚者で、親戚の中には命からがら樺太から逃げてきた人もいた。
話が靖国神社に祀られている秋田県の部隊の話から逸れてしまったが、日本を守るため、また、アジアを解放するために戦った先人がいたことを忘れてはいけないし、8月15日以降の日本人の受難も忘れてはいけない。

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